お待たせしました! 保科洋指揮法クリニック2019、お申し込みの受付を開始いたしました!
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受講締切は11月30日、
プレイヤー・聴講締切は12月28日です!
講習会についての詳しいご案内は、こちらのページでご覧ください。
なお、今回から講習テキストが事前に配布され、みなさまに予習をお願いすることになりました。
そこで…
その講習テキストの内容を、ここでちょっとだけご紹介します!
アゴーギクの表現(その解釈と指揮法)
保 科 洋
†テンポとアゴーギク
あらゆる楽曲とその演奏には必ずテンポがあります。テンポとは楽曲の性格を決定づける音楽の最も基本的な属性です。実際の演奏において、演奏家は必ずしも全ての曲を指定されたテンポで演奏しているとは限りませんが、そのような場合でも、指定されたテンポに配慮した上で演奏するテンポを決定することは演奏家に課せられた最も基本的な姿勢でしょう。さらに、通常はテンポ指定が変えられない限り、みだりに演奏のテンポを動かすことは許されません。なぜなら
演奏とその享受という音楽行為は、演奏者が選んだテンポを聴き手も共有することによって成り立つものだからです。
ある曲の演奏が始まりました。このとき聴き手は演奏者が採用したテンポを自分自身のテンポとして無条件に受け入れて、その先を予測し期待しながら音楽を聴いているのです。つまり聴き手とは、演奏者が選んだテンポを自分自身のテンポ感に置き換えて作品と演奏を鑑賞しているのです。したがって演奏者は、最初のテンポを変化させる場合には、自身のテンポ感を変更するだけでなく、聴き手のテンポ感をも動かす音楽的必然性と相応のエネルギーが必要です。このことは指揮者と演奏者の関係でも同じで、演奏者とは、指揮者が採用したテンポを無条件に受け入れて音楽を表現せざるを得ない宿命にあるのです。すなわち、
テンポとは、演奏者と聴き手、あるいは指揮者と演奏者双方の音楽的な時間を支えるための「楽曲進行上の慣性」ともいうべき推進力の役割を果たしているのです。
一方、アゴーギクという現象を一言で言い表すなら、
楽曲を演奏する際に、演奏者が自己の解釈や意図を表現するための手段として行う「テンポの局所的変化」です
アゴーギクは「緩急法」「速度法」とも言われています。堅苦しい表現ですが、リラルダンド、アッチェレランド、フェルマータなど、曲中でテンポが揺れ動く現象はすべてアゴーギクです。
アゴーギクには作曲者によって指定されたもの(rit. accel. fermata. etc.)と、何も指定されていない箇所で演奏者が自発的に行うもの(微妙なrubatoやten.あるいは特徴的な舞曲のリズムの表現など)がありますが、いずれにせよアゴーギクとは、上述のテンポという推進力の流れを一時的にしかも意図的に壊す表現法ですから、
アゴーギクの表現にはその必然性を裏付ける演奏解釈と、テンポという「楽曲進行上の慣性」を動かすに足る演奏者の強靱な「表現するエネルギー」が不可欠なのです。
†音楽的に必然性のあるアゴーギク
アゴーギクという現象を楽譜の視点から眺めますと、楽曲中の1音あるいは音群について、
記譜上の音価(音符や休符の長さ)に見合う演奏時間が、指定テンポから変化した現象
と見ることが出来ます。したがって、変幻多彩ともいえるアゴーギクの表現法を探るためには、なぜ、楽譜と演奏内容にギャップが生じているのに聴衆は違和感を感じないのか? なぜ、テンポという「慣性」に支えられた音楽の流れを壊しているのに聴衆に感銘を与えられるのか? などを解き明かさなくてはならなりません。すなわち、
記譜上の音価に対して実際の演奏時間が変化しても不自然にならない音楽的必然性の解明
これこそが音楽的に魅力あるアゴーギク表現の秘密を探るカギなのです。それでは、音楽的に必然性のあるアゴーギクとはどのようなものなのでしょうか?
アゴーギクの表現とは、前述のように演奏者の解釈およびその演出法に依存するものです。したがって、その表現法や内容は時代や演奏者によってまちまちで、しかも一概にどれが正しいといえるものでもありません。事実、アゴーギクとは作曲家によって指定されたものでさえ、その微妙なニュアンスまで楽譜に指示されているわけではなく、その音楽的バランスは演奏者の感性に委ねられているものです。まして、何も指示されていない箇所の繊細なアゴーギクに至っては、その適用の是非も含めてまさに演奏家のセンスを問われる処であるといえましょう。
ところで、現存するさまざまな歴代の名演奏には、珠玉のように魅力あるアゴーギクの表現がちりばめられていますが、これらはそれぞれの時代の聴衆によってその音楽的必然性や妥当性を確かめられ選別されてきたものばかりでで、いわばアゴーギク・エッセンスの宝庫といえましょう。それとともにこのことは、聴衆とは何らかの尺度で音楽的に妥当なアゴーギクと不自然なアゴーギクを嗅ぎ分ける感性~時代によって嗜好の変化はあるにせよ~を備えていることを意味しています。さらに言えば、作曲家と演奏者の間には、
アゴーギクの妥当性・必然性を感じ合える何らかの共通した普遍的感性が介在している
という証であるといえましょう。
†アゴーギクの妥当性を推し量る物差し(音価と音量の相関)
それでは、その普遍的感性とはどのようなものなのでしょうか? このことを探るためには、音楽の素材としての「音」の特性と、それを記述する「音符」の音楽的な内容を伝達する機能について整理しておかねばなりません。
音の物理的特性(音の三要素)
音を生み出す(空気を振動させる)ためには何らかの力学的エネルギーが不可欠ですが、その結果生じた「音」は下記の三種の物理的特性によって特徴づけられます(「音の三要素」ということにします)。
「振幅」音の強弱───振幅が大きい(エネルギー大)ほど音は強くなる。つまり音量が大きくなる
「振動数」音の高低──振動数が大きい(エネルギー大)ほど音は高くなる
「波形」音色──────波形が異なると音色が異なる。エネルギー量が変わっても音色は変化しない
以上の特性から、音を発生させるために要したエネルギー量が大きいほど、発生した音の「音量」は大きく「音高」は高くなることが分かります。すなわち、
音の発生に要したエネルギーは、音波の振幅(音量)と振動数(音高)を変動させる
のです。
それでは、このような「音の特性」を「音符」はどのように記述しているのでしょうか
音符の情報伝達機能(音符の三機能)
楽譜とは作曲家から演奏者への手紙です。その楽譜の主役が「音符」であることは言をまちませんが、変幻多彩な楽曲の内容を余すところなく伝えてくれているこの「音符」とは、驚くべきことに下記の三種類のことしか記述できないのです(「音符の三機能」ということにします)。
「音の長短」(音長)───さまざまな音価の音符を組み合わせることで記す
「音の高低」(音高)───五線譜上に音符で位置を指定することで記す
「音の集積」(音積*)───(a)五線譜上に高さの異なる複数の音を時間的に同時に記す
(b)複数の五線譜を使って同じ音高の複数の音を時間的に同時に記す
(c)上記(a) (b)を組み合わせて記す
*「音積」とは聞きなれない用語ですが「音長」「音高」にならった筆者の造語です
†減衰曲線 =「音の三要素」と「音符の三機能」を結ぶもの
楽譜が作曲家から演奏者への手紙であるということは、楽譜とは「音符の三機能」を駆使して「音の三要素」の内容を記述しているものである、ということですから、両者は対応していなければ手紙としての用をなしません。では両者はどのように対応しているのでしょうか。
この続きは、講習会で!